第四章 La Variete(2)

 〈アスモデウス〉の操縦室へ入った文楽が最初に気づいたのは、内部に微かに漂うえた死の匂いだった。

 おそらく今までの操縦士達が、吐瀉としゃした跡が染みついたものと、あるいはへばりついた血が醸成されたか。

 どれだけ洗浄を行い、部品を入れ替えても、染みついた死臭がそう簡単に消せるものではない。記憶から取り除くことも不可能だ。

「やっほー、お兄ちゃん! サラの操縦席なかにようこそ!!

 操縦席に座ると、サブモニターに映る陽気なサラの笑顔が出迎える。

 精巧な立体映像は〝虚飾〟の能力を持つフェレスだけの特権だ。彼女の場合、他の多くの機体と同じく、平面的な映像として仮装人形と同じ姿が映し出されるのみだ。

「サラ、昨日はお前どこへ行っていたんだ?」

「うーん、よくわかんない。起きたらね、外で裸で寝てたの」

「そうか。服は着た方がいいな」

 若干投げやりになりながらも、文楽は平静を装って応える。

 特殊な能力ばかりのフェレスに慣れてしまって忘れがちだが、普通の人形が嘘をつくことはできない。【誠実の鼻】と呼ばれる倫理規則によって、偽証を制限されている。

 彼女が「わからない」と言うからには、本当に分からないのだろう。

 昨晩のサラの様子は、まるで何者かが取り付いているかのようだった――自分を色欲の悪魔アスモデウスと名乗る、何者かが。

 一抹の不安を抱えながらも、文楽は模擬戦へ向けて集中を高める。

「そういえば、お前の認証具をまだ受け取っていなかったな」

「うん! 操縦席に置いてあるから、それをはめてね!!

「……うん? はめるだけでいいのか?」

「そうだけど、お兄ちゃんもしかして認証具の使い方知らないの?」

「いや、何かはめる前に台詞とか、儀式とか……そういう手順は要らないのか?」

「そういうの好きな子も居るよ? でも、サラはあんまり気にしない」

「こういうのも、騙されたというべきなのか……」

 今まで三人の人形達と認証印ゆびわをかわしてきたが、仰々しい儀式を要求されたのは一度きりだ。そもそもあいつは、他の人形と基準がずれている。

 彼女に合わせてばかりいれば、本来の《人形遣い》としての在り方を狂わされてしまうばかりではないだろうか。文楽はこめかみを押さえて、思わず考え込みたくなる衝動に襲われる。

「お兄ちゃん、大丈夫? 頭いたい?」

「痛くない。大丈夫だ」

 操縦桿の横へ無造作に置かれていた認証具を指にはめ、機体の状態をモニターでつぶさにチェックしていく。

 今回の操縦試験は、単なる試験とはいえ決して手は抜けない。

 サラが〝人食人形〟と呼ばれる理由をつきとめるため――それも確かに重要なことだ。

 だが、文楽のやる気を高めているのは、極めて個人的な理由によるものだ。

「済まないな、レヴィア。せっかく修繕が終わったばかりなのに、新品の装甲を汚すことになってしまって」

『本調子に戻ったこのボクを相手に、余裕じゃないか。さすがはボクのマスターだね』

 正面のメインモニターに映し出される紫紺の機体。〝嫉妬〟の〈リヴァイアサン〉に向かって文楽は挑発的な言葉を投げかける。

 ゲーティアのくびきから解放されたレヴィアと再び相まみえることは、素直に嬉しい。

 とはいえ、銃を向け合うからには手加減するつもりはない。それとこれとは話が別だ。

『他の機体おんなに二度と目移りしないよう、今日こそ教えて上げるよ。ボクがこの地上で、最もキミに似つかわしい機甲人形アーマードールだってことを』

「いいだろう。装甲の50だ。それだけ塗れたら、お前の言い分を聞こう」

『それいいね。じゃあ、ボクの装甲を50塗れたらそうだな……食事の後片付けをボクも手伝うことにするよ』

「お前、そんなに手伝うの嫌なのか」

 条件が緩いのはさておき、何か賭け金を積んでおくのは悪くないと文楽は感じた。負けられない理由があった方がお互い本気になれる。

 互いに火花を散らす二人の間に、対抗心を燃やし始めたサラが割って入った。

「サラだって、レヴィア姉さまが相手でも負けないから!!

『キミのその能天気さは羨ましいよ。思わず叩きのめしてやりたくなってくるね』

HOWはう DAREであ YOUゆーっ!!

 サラはとつぜん、獣が唸るような声を上げて怒りを露わにする。なんと言っているのかは分からないが、少なくとも穏やかじゃない様相であることだけは確かだ。

 《七つの大罪セブン・フォール》の五女と六女、更に英雄《蛇遣いアスクレピオス》。三者三様に白熱していく状況で、一人だけ蚊帳の外な訓練生は、思い出したように声を上げる。

『あっれ、何これ? なんか私、怪獣大決戦に巻き込まれてる感じ?』

「どうした留理絵、じ気づいたか」

『レヴィアちゃんに乗せてもらえると聞いて、イイ人形に弱い私は誘われるままホイホイとついてきちゃったわけなんだけど、今さら状況を振り返ってヤバさに気づいたのだ』

「お前、本当にそれだけで引き受けたのか?」

『いやあ、お恥ずかしい。やっぱり、操縦士としてちょっと不純だったかな』

「むしろ感心すべき理由だと思った。お前は操縦士として向いている」

『え、そうなの?』

「『良い人形に乗ってみたい』と思うのは当然だからな」

 当人は自覚がないのか、呆けた声を上げている。

 だが、彼女の〝機甲人形アーマードールに乗りたいから乗る〟という明確さは、前線の兵士達のそれに近い。動機に不純な要素が入り交じっている点は否定できないが。

 起動準備を終えた〈リヴァイアサン〉と〈アスモデウス〉は、互いに推進器を点火させ、滑走路を滑るようにして機体を発進させる。

 上空へ飛び立った両機は、緩やかな曲線を描きながら二手に分かれ、充分に距離を取った状態で機体を空中停止ホバリングさせた。

「あの二人の射撃照準精度は侮れない。絶えず動き回ってかき乱すぞ」

GOT ITガーリっ!!

 レヴィアを相手に中距離戦を仕掛けるのは無謀だ。フェレスのときは〈琺瑯の瞳エナメル・フェイカー〉が持つ規格外の能力を駆使して、距離を詰めるのがやっとだった。

 だが今回は、機操人形による撹乱かくらんは使えない。〈アスモデウス〉の機動性だけが頼りとなる。もっとも、その機動性に文楽自身が耐えきれるかも焦点だ。

 〈リヴァイアサン〉は、模擬弾頭が装填された対物ライフルを大きく頭上に掲げ、戦いの開始を告げるよう高らかに謡う。

『さあ獣娘けだもの、逃げ惑うがいい。魔弾の狩人がキミの相手だ』

 染料インク入りの模擬弾ならば、装甲に穴を穿うがたれる心配は決して無い。

 だが、染料にまみれた機体の装甲を掃除する羽目になるなど、操縦士としての自尊心プライドが粉々だ。

 膨れあがる高揚と緊張は、砲声と共に勢いよく弾けた。

§

 粗暴で野蛮な妹を、獣と喩えた自分の感知機能センスは中々えていたようだ。

 レヴィアは照準に全神経リソースを集中させながら心の中で頷く。

「ちょっと、物理法則バグってんじゃないの!? 神様デバッグしてないでしょこれ!!

「世界に当たっても仕方ないよ、留理絵。獣に神はいないんだ」

 留理絵が当たり散らしたくなるのも無理はないとレヴィアは感じた。

 〈アスモデウス〉が行う滅茶苦茶な回避機動は、まるで山道を駆ける野生の獣だ。

 とても弓と矢だけで行える狩りではない。

 だとすれば、罠を周到に仕掛けるのが賢い狩人だ。

「まずは動きを止めないと……!!

 レヴィアは反射的に、機体両肩にある機操人形の固定ロックを外そうと試みる。

 だが返ってくるのは、微かな異音と解除不能の警告アラートだけ。

 今回は機操人形が使えないのだと、一瞬遅れて思い出した。

「動き止まってるわよ、レヴィアちゃん!!

「っ……しまった!?

 留理絵の大声に弾かれるように、レヴィアは慌ててライフルの引き金を引く。

 だが、ろくに照準の定まっていない砲撃は、襲いかかる獣性を留めることすらできない。必死に維持していた相対距離を、あっという間に詰められてしまう。

 野生の獅子を思わせる、黄金色こがねいろに輝く〈アスモデウス〉の機体が視界の中で一挙に大きさを増していく。

 機体を後退させるか、或いは背を向けて離脱に入るか。判断を迷うレヴィアに、留理絵が力強い声で呼びかけた。

「レヴィアちゃん、左手借りるわね!」

「別にいいけど、やらしいことに使うのは止してくれよ」

「今日はガマンしておく!」

 言ったが早いか、留理絵は操縦桿そうじゅうかんを操作し、〈リヴァイアサン〉の空いていた左手を腰元に回させる。

 何をするつもりなのかと思った瞬間、左手には補助火器サブウェポンである機関拳銃マシンピストルが握られていた。

 頼りなさを感じる小ぶりな火器だが、機甲人形アーマードールの全長は人間のおよそ10倍。拳銃のような火器の口径も同じく10倍近くあり、威力は重機関銃マシンガンに相当する。

「無駄だよ、留理絵。拳銃の精度じゃ当たらない」

「別にいいのよ。私のは当たらなくて」

 留理絵は突然、何もない虚空へ向かって機関操縦を掃射し始める。

 それに一瞬遅れて、〈アスモデウス〉が突然その射線へと自ら跳び込んで来た。

偏差予測射撃ディフレクション……!?

 操縦士の意図に気が付いたレヴィアは、弾かれたように叫ぶ。

 留理絵は〈アスモデウス〉の軌道を予測し、射撃を先んじて置いていたのだ。

 理屈だけならば簡単だが、簡単にできることではない。

「レヴィアちゃん、今よ!」

「ああ、分かってる!!

 罠に引っかかった獣のように、〈アスモデウス〉は機体の出足を止め、休み無い回避機動に一瞬の陰りが差す。

 その隙を見逃さず、レヴィアは対物ライフルの照準を定めて引金を引いた。

「チッ……直撃じゃないか」

 弾着を待たず、レヴィアは舌打ちを漏らす。

 留理絵の放った牽制けんせいを反射的に回避した〈アスモデウス〉は、その場で機体を急旋回させて機動を無理矢理に切り替える。巨大な二基の推進器を利用した、力尽くの芸当だ。

 ライフルの弾頭は装甲を微かに撫で、かすれた染料の跡を残しただけだった。

「……文楽君、あの激しい機動で無事なのかしら?」

「留理絵、油断するな! 来るよっ!!

「えっ、ちょっと待って!?

 急旋回を行った〈アスモデウス〉の両手には、いつの間に取り出したのか、のような形状をした武器が握られていた。

 機体が回転したときに生じた遠心力に乗せて、二つの円輪が両腕から放たれる。

『〈輝く光輪クワルナフ!!

 サラの呼び声と同時、高速で回転する二枚の円刃チャクラムが〈リヴァイアサン〉へと襲いかかる。

 銃弾に比べれば速度こそ遅いが、なにしろ刃の幅広が尋常ではない。

 直撃する寸前で回避機動を取るも、片方の刃が機体の左腕から機関拳銃マシンピストルを弾き飛ばした。

「レヴィアちゃん、大丈夫!?

「クッ……追い詰めたつもりが、逆に手を噛まれるなんてね」

 刃が当たった箇所は、着弾ヒットを示すための赤い染料でべっとりと塗れている。まるで食い千切られて血塗ちまみれになったかのようだ。

「今の連携でもう一度行きましょう」

「いや、ダメだ。ボクの左手はもう使えない」

「もしかして、今の攻撃で故障したの!?

「いいや、壊れてはいないよ。でも、今のが実戦だったら、ボクの左手は吹き飛んで使えなくなっているはずだ。だから使わない

「何そのイケメン!?

 〈アスモデウス〉が放った円刃チャクラムは、模擬戦用に刃の切断能力を潰してある。損傷ダメージとしては巨大な鉄板が当たっただけだ。

 だからといって、当たってなかったような顔をして、平然と直撃を受けた左腕を使うだなんて、第五の大罪フィフス・フォールの矜持が許しはしない。

「気が進まないなら付き合ってくれなくていいよ、留理絵」

「とんでもない。私もそれ乗るわ」

「……キミとは案外、うまくやれそうだ」

「ほんと? 嬉しい、レヴィアたん!!

「その呼び方はなんかムカツクからやだ」

 マスターとは――文楽とは違っていまいち所有欲をそそられないが、それでも留理絵は充分使い心地のいい操縦士だ。

 技術は標準以上だし、機体の制御の邪魔をしない。配慮があまりに行き届きすぎていて、全身をくまなく手で撫でられているような不気味さを感じるのは気に掛かるが。

 だが、自分の操縦士はあくまで《蛇遣いアスクレピオス》ただ一人だ。今でこそ戦っているが、この勝負に勝って自分以外の機体に乗らないと、今度こそ約束させてやる。

 固く心に誓うレヴィアに、留理絵がふと怪訝な声を掛けた。

「ねえ、レヴィアちゃん……何か、あっちの様子おかしくない?」

「どうしたんだろう。マスターの方がとうとう音を上げたのかな」

 デタラメな機動を繰り返していた〈アスモデウス〉の動きが、急に勢いのない単調なものへと変じていく。あれではまるで、風に流され漂うたこのようだ。今なら引金を引くだけで、機体の全身を染料で染めてしまえる。

 もしかしたら中に乗っているマスターが気絶して、機体の制御を失っているのかもしれない。模擬戦を続行すべきか、戸惑うレヴィアの視界の中で、唐突に異変が起きた。

「ッ……ハッチの緊急開閉だ! やっぱり、何かあったんだ」

「えっ、何がどうなってるの!?

 異変が起きたのは〈アスモデウス〉の操縦席を塞いでいるハッチだ。

 分厚い金属製の門扉が突如として吹き飛び、中にいる文楽の姿が表われる。

 おそらく操縦している彼が自ら、ハッチの排除を行ったのだろう。

「マスターが機体を降りようとしてる。助けないと!」

「でも、一体どうして……!?

「決まってるよ……〝人食人形〟が目を覚ました」

 レヴィアがつぶやいた言葉は、果たして現実へと移り始めていた。

§

「ッぐ……飯を抜いてきて正解だったな」

 投げ放った〈輝く光輪クワルナフ〉が〈リヴァイアサン〉に着弾するのをモニター上で確かめた文楽は、胸をつかえながら小さく呟く。

 予想していた通り〈アスモデウス〉の機動性は、人間の手にあまるほど暴力的だった。むしろ、破壊的と言った方が適切か。

 一挙一動の度に、内臓を激しく揺り動かされる。見えない重力の腕で掴まれ掻き回されているようだ。吐き出すものがないよう、食事を取ってこなかったのは正解だった。

「お兄ちゃん、さっきから指が止まってる! もっとHARDに!!

「まさか、これ以上激しくしろというのか?」

「HELL YEAH! ぜいたく言ってちゃレヴィア姉さまには勝てないよ!!

「……フェレスの気持ちが理解できてしまった」

 他人の気持ちを知るほどに、人は優しくなれる。フェレスに対して少し手加減をしてもいいかも――という思いが脳裏を掠めた。

 文楽は渋々といった面持ちで、機体の出力を段階的に上昇させていく。目盛りゲージを一段増加させるごとに、あばら骨が1ずつきしんでいく。

 中距離戦を得意とするレヴィアに対し、あえて投擲攻撃を仕掛けるのは危険な賭けだったが、虚を突くことには成功した。

 だが、そう何度も使える手ではない。使いたくても使えないのだ。

 近距離戦を得意とする〈アスモデウス〉は、機体の強みを最大限活かすために、遠距離武器を一つも積んでいない。投擲とうてき武器も積んではいるがごく少数のみ。先ほど放った〈輝く光輪クワルナフ〉も、二枚しか搭載しておらず既に弾切れだった。

「お兄ちゃん、早く近づこう! サラ、姉さまと早く戦ってみたい!!

「落ち着け、サラ。いくらなんでもこのままではもたない」

「NO PROBLEMS! エネルギーが切れる前に決着つけるから!!

「俺の胃がねじ切れる方が先だな」

 文楽は張り切るサラを必死の思いで押しとどめる。

 この調子では、機体のリミッターに出力制限がかかってしまいかねない。操縦士の生命に危険を及ぼすような機動を取ることは、たとえスペック上可能であっても制限されてしかるべきだ。

 更に人形知能デーモンの意思に反した出力制限は、機体の制御を失うという二次的な危険もはらんでいる。

「いいか、サラ。たとえ出力制限が限界性能の80だとしても、意識して70程度に留めておくのが賢い判断だ。わかるか?」

「サラはそういう難しいことよくわかんない!!

「前向きに諦めないでくれ」

 分からない人間に対して分からせようとすること自体、とても愚かで利己的な行為だ。自分自身にがくがないからこそ、文楽にはそれがよく分かった。

 彼女をどうなだめるべきか――思い悩む文楽は、ふと機体の異変に気が付いた。

 動力機関エンジンの出力が急激に低下し、機体の速度が徐々に落ち始めてしまったのだ。

 自分の言葉を聞き入れ、出力を落としてくれたのだろうか。いや、違う。これは予測ではなく期待に過ぎないと、即座に切り捨てる。

 サラが聞き分けの良い性格ではないことは、今までの会話で充分に理解している。

 彼女の機動力は最大の強みだ。操縦士である自分に激しい負担が伴うが、その武器を活かさなくてはとてもではないがレヴィアには勝てない。

 長い髪をおろした見知らぬ女が、サブモニター上に映し出されていた。

「――死にたくなければ、今すぐ機体を降りなさい」

「っ……!?

 思わず文楽は言葉を失う。

 二つ結びにしていた蜂蜜色の髪を無造作に下ろし、陰鬱な目つきで自分を見つめる少女。姿形は確かにサラのものだが、間違いなく別人に入れ替わっているとさとる。

「お前は、アスモデウス……!?

 昨晩、文楽の夢枕に現われ、自らを「色欲の悪魔アスモデウスだ」と名乗った何者か。サラはその存在と入れ替わっている。

 人形知能デーモンの人格が奪われる瞬間に立ち会うのは、これが初めてではない。

 あの日東海州の空で、絶望と共に嫌と言うほど味わっている。

 だが、あのときに起きた現象と、今目の前で起きている現象は、何かが根本的に異なっている――他ならぬ文楽だからこそ、その違和感に気が付くことができた。

「降りろと言ったはずよ」

 冷たく突き放すような声で、サラの姿をした少女は告げる。さっきまで明るい調子で喋っていたサラと同じ声だとは、とてもではないが思えない。

「降りろと言われても、この高度では無理な相談だ」

「これ以上の情けはかけないわ」

「……どうやら話は通じるようだな」

 前人未踏の事態においても、文楽は至って冷静に状況を判断していた。

 得体の知れない現象に対する恐怖ならば、確かに感じている。

 だが、あのときほど絶望はしていない

 この異変をどう外部に伝えたものか。思い悩むと同時、操縦室内に異変が起きた。

 機体の内部と外部を繋ぐ操縦室のハッチ。そのふちに沿った外周部から、小さな破裂音と共に煙が上がり始めた。

 炸薬さくやくを使ったハッチの緊急排除装置だ。固い施錠ロックを爆発で機構ごと吹き飛ばし、無理矢理に操縦室を開放するための機能。

 機体の制御が奪われたとき、操縦士が脱出するために使うためのものだ。

「お前、何者だ。サラではないな? それに、悪魔ゲーティアとも違う」

「私はアスモデウスよ。他の何者でもない」

 〝アスモデウス〟が声を荒げたと同時、文楽の身体を操縦席に縛り付けていた安全ベルトのロックが独りでに外れた。

 つなぎ止める力を失って、文楽の身体がふわりと座席から浮かぶ。機体から切り離され、宙を泳ぐような浮遊感が全身を襲った。

――まさか、振り落とすつもりか。

 文楽の脳裏をかすめる嫌な予感は、果たして的中してしまう。

 〈アスモデウス〉の機体はぐるりと姿勢を変え、腹部を下に向けた状態になる。

 ハッチを失い開け広げになった操縦室内。遙か遠い地上の景色が文楽の目の前に広がる。今にもその景色の中に吸い込まれそうだ。

「くそっ、本当に振り落とすつもりか……!!

 文楽は必死に操縦室内のあちこちに四肢を引っかけ、必死の思いで振り落とされないように抗う。だが、〈アスモデウス〉は彼を振り落とそうと機体を激しく揺らす。

 操縦桿を掴んでいた指がずるりと滑り、身体が大きく傾く。

 地上一面に生い茂る木々の緑が、文楽の視界を満たしていく――

 

『ねえ、マスター』

 

 ――そんな中。

 見覚えのある紫紺の色が、一つ点を落とすよう深緑の中に表われた。

『助けてあげるよ。愛してると言ってくれたら

 〈アスモデウス〉の機体直下、十数メートルの先。

 併走するように追いかける機甲人形アーマードール〈リヴァイアサン〉が眼下に姿を現した。

 機体の姿を目に入れた瞬間、文楽は躊躇なく手足を放し、〈アスモデウス〉の操縦室から空中へ身を投げ出す。

 地上へ向けて自由落下を始めた文楽の身体は、重力に引かれて激しい風圧を浴びる。

 耳に叩き付けられる激しい風音に混じって、レヴィアの呆れたような声が耳に届いた。

『ちょっと、答えはまだ聞いてない』

 自由落下を初めて間もなく、固い金属の感触が文楽の全身を叩いた。

 地表へ向かって真っ逆さまに落ちていこうとする彼の身体を、〈リヴァイアサン〉が機体の両腕で華麗にすくい上げていた。

「助かった、レヴィア。今回は言ってもいい」

『いや、やっぱり言わなくて良いよ。代わりにあとで、甘い口づけを強請ねだるから』

「頼む、今言わせてくれ」

『それは聞けない相談だ』

 受け止める瞬間、レヴィアが手を小さく落として衝撃を和らげてくれたが、それでも痛いものは痛い。全身の骨が軋むように痛んだ。

 〈リヴァイアサン〉は巨大な両手で文楽の身体を包んだまま、すぐさま後退して〈アスモデウス〉との距離を取る。

 機体外部の拡声機を通して、操縦を行う留理絵の慌てた声が響いてきた。

『文楽君、大丈夫!? ちょっと、血だらけじゃない!!

「……ん?」

 〈リヴァイアサン〉の掌に包まれた文楽は、ふと自分の身体を見回してみる。

 確かにスーツのあちこちが赤く染まっている。どうやら

「これは違う、留理絵。〈リヴァイアサン〉の腕についた染料が付着しただけだ」

『えっ? あ、ほんとだ。うわあ、ビックリした……』

「いや。出血もしていた。多少は俺の血だ」

『っ……だーもう! そんなのツバつけときなさい!!

「なんだかわからんが怒らせて済まない」

 額についた浅い傷を、文楽は袖口で軽く拭う。

 どうやら〈リヴァイアサン〉の手の平に着地したとき、指に額が当たってしまったようだ。

 なぜか怒った様子の留理絵に加えて、レヴィアの方も声に怒りを滲ませ始める。

『マスターに怪我を負わせるなんて……いくら妹でも許せないよ』

「レヴィア、よせ。下手に事を荒立てるな」

『でも、サラのせいでマスターは危険な目にあったんだよ!?

「落ち着け。この状態で戦闘に入ったら俺はもっと危険だ」

 文楽の身体を受け止めるため、レヴィアは両手の武器は手放してしまっている。

 〈リヴァイアサン〉が所持しているのは、生身のまま手腕部にしがみついている文楽のみ。このまま戦闘に入れば怪我などでは済まない。

 〈アスモデウス〉は覚束ない機動のまま、基地とは逆方向へ機体を進め始める。このまま空域を離脱して逃げ切る算段なのだろう。

『マスター、どうする? ていうか、何があったの?』

「サラの人格が、突然別人のようになった」

『それって、やっぱりゲーティアに汚染されてたってこと!?

「いや、それとは少し違うと感じた。とにかく本人に問い質すしかない」

 もっとも、彼女が話に応じてくれればの話だが。

 ただの試験操縦のつもりが、うっかり藪を突いて蛇を出してしまったらしい。

 解決の糸口が見つかったのは喜ぶべきかもしれないが、このまま〈アスモデウス〉が脱走を図れば、処分の指示が下ってしまう可能性もある。

「俺は基地に戻ってフェレスと出撃し直す。お前らはサラの後を追ってくれ」

『わかった。今すぐ機体を地上に降ろすわ』

「いや、時間が惜しい。機体を少し止めておいてくれ」

 言うや否や、文楽は懐から輪の形に巻いた糸を取り出すと、〈リヴァイアサン〉の小指に先端を縛り付ける。

 そして糸を厚手の革手袋をはめると、糸をつかんだまま機体の手から身を乗り出す。

 飛び降りる瞬間、留理絵の裏返ったような大声が頭上から響いた。

『ちょっ、待っ……あーもうバカ! 文楽くんなんか二度と心配してやらないからー!!

 前線の兵士と近い感性を持っていると思われたが、どうやら留理絵もこういった部分はまだ人並みに普通らしい。

 〈リヴァイアサン〉の小指から垂れ下がった糸を伝って、文楽は遙か下方に見える森へ向けて躊躇なく飛び降りてしまうのだった。

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