第二章 Woke From Dreaming(4)

 文楽は、微かな緊張を覚えながら扉を叩く。
 彼が立っているのは、『学長室』と表札が吊るされた扉の前。
 中から返事が聞こえてくるのを待ってから、文楽は静かにその扉を開いた。
「失礼します。遅くなりました、愛生文楽です」
「やあ、よく来てくれたね」
 小さな事務机の前にはこの部屋の主である男、学長の戸賀とが是人これひとが机の上に両肘を載せた状態で手を組み座っている。
 白髪が交じり灰色がかった髪に古風な雰囲気を持つ銀縁の片眼鏡モノクル
 是人学長は学校の責任者として、文楽が訓練学校へ入学できるように取りはからってくれた人物だと隊長から聞かされていた。元々は国防軍の技術士官として研究職に就いていた、四十代後半になる中年の男だという話だ。だが見た目の印象は中年というにはあまりに若々しく、やや老け気味の青年といった印象の方が強いほどだ。
「待っていたよ、愛生文楽君――それとも、蛇遣いアスクレピオスと呼ぶべきかな」
「いえ、今の自分は一介の訓練生です」
「それは失礼した。我が校へようこそ、愛生訓練生」
 そして、対峙していると突然人ではない何かに変じてしまうのではないか――そんな底の見えない気配を瞳の奥に宿していると文楽には感じられた。
「随分と遅かったようだが、何かあったのかな?」
「少し、迷ってしまいまして」
「なるほど……いきなり訓練生になれと言われたところで、今まで戦場で生きてきた君には、到底受け入れがたい命令だったことだろう。迷って当然だ」
「……いえ、単に校舎の中で道に迷っていただけです」
「ふっ、ははは! なるほど、勘違いをしてしまったようだ。想像していた以上の大人物だよ、君は」
 学長はなぜか心底愉快そうに笑い声を上げる。恥をかかせるなと怒り出してもいい場面だろうに。なんというか感情の読めない男だ。
 文楽は勧められるまま、応接用の長椅子に腰掛ける。予想外に腰が深く沈んで、その柔らかさに人知れず小さな驚きを覚えた。
「では君は、ここに来ることを受け入れるかどうかについては悩まなかったのかな?」
「戦場へ戻るためならば、大抵のことは受け入れるつもりです」
「ほう、なるほど。話に聞いていた通りだ。君みたいな人間こそ、まさしく英雄になるに相応しい。ところで、コーヒーは嗜むかな?」
「いえ、嗜むというほどでは。代用品しか口に入れたこともない」
 ゲーティアが出現して以来、世界中の海には汚染を受けた無人潜水艦と無人駆逐艦が蔓延はびこっており、海路空路共に国外と交信する手段はない。戦前ではありふれた輸入品だったコーヒー豆も現在では希少品だ。
 国内の一部で栽培されているものがわずかに出回っているのみで、ほとんどは似た成分を化学合成しただけの代用品である。
 学長は黒い粉末の入った瓶と、何かの実験装置のようなものを戸棚から取り出す。
 装置の下部にある丸底の硝子容器フラスコには水が注がれているようだ。
「……一体、その妙な機械はなんですか?」
「サイフォンといって、コーヒーを入れるための装置だよ。戦前は電気式のものが一般的だったが、今ではかえってこちらの方が便利だ。何よりこの方が味わいがある
 二段になった硝子ガラス製の容器と、下部に備えられた、湯を沸かすためだろうアルコールランプ。たかが一杯淹れるために、やたらと大仰な装置だ。てっきり化学薬品の調合装置だと思っていた。
 文楽の知っている淹れ方は、焚き火で湯を沸かして、コップに粉をぶちまけて湯を注ぐだけ。手早くどこでも淹れられることが利点の飲み物だとすら思っている。
「……本物のコーヒーというのは、淹れるだけでこんなに手間が掛かるんですか」
「いや。これも実を言えば、本物に似せて作った代用コーヒーだよ。本物と同じなのは、淹れる機戒の方だけだ」
「はあ?」
 文楽は思わず、素で大声を上げてしまう。
 見た目は単なる穏やかな壮年の男だが、言葉の端々から滲む思想や考え方は、人間とも人形とも違う、異なる存在の文脈が流れている。彼の立っている場所だけ、景色が歪んでいるかのような奇妙さがあった。
「いや、ならどうして、こんな手間を掛ける必要が……」
「大切なのはかくあれかしと思う心だよ。思いやすく作る必要はあるがね」
 そう言って学長は、楽しそうにフラスコの下部にあるアルコールランプに火を付ける。
 学長の瞳の奥で灯火のように微かな光が揺れているように文楽の目には映った。
「愛生訓練生……君は、ゼペットという人物を知っているかな?」
「ええ、勿論です。【救世の父】と呼ばれるほどの偉大な方ですから」
 その名が本名なのか俗称なのか、そもそもどんな人物なのかすら、まるでお伽噺とぎばなしのように不明確で曖昧あいまいだ。
 だが人形知能デーモンという存在を考案し、人類を破滅から救ったという功績は、この世界の如何いかなる英雄にも劣らない成果だ。
 人類がこれまで機甲人形と共に積み上げてきた数々の勝利も、人形知能という存在があって初めて生じたものだ。もし彼の存在と、その発明がなければ人類は今頃全滅している。
 この世界の人間であれば誰もが当然知っている。
「この世界で最初に人形知能デーモンを考案した科学者……そして、《七つの大罪セブン・フォール》を造型した人形師。一般に知られているのと、同程度の知識しかありません」
 ゼペットが生み出した七体の人形知能デーモンは《七つの大罪セブン・フォール》の異名で知られ、優れた性能から戦場で数々の武勇を残している。
 文楽のかつての愛機〝嫉妬〟の〈リヴァイアサン〉もその一体だ。
「一体、どうしてそんな話を?」
「いや。もしも君の目の前に居る男がそのゼペットだと言ったら、君はどんな顔をするのかと気になってね」
「……えっ」
 文楽は魂の抜けた蝋人形のような表情で、学長――であったはずの男を見つめる。
 自身をゼペットと名乗った男は、どこからか取り出したカメラをパシャッと切りながら、悪戯を成功させた子供みたいに屈託の無い笑顔を浮かべた。
「なるほど、そういう表情か。興味深い。写真に収めておこう」
「いえ、その……冗談としか思えません。それほどの人物が、こんな後方の訓練学校で学長をしているだなんて」
「ふふふ。あの《蛇遣いアスクレピオス》が後方の訓練学校で訓練生をしているだなんて冗談に比べれば、まだ現実味がある方だと思えるがね」
「確かに信じられないというだけで否定はしません……だが、肯定もできない」
「信じるか信じないかは君次第だ。まあ、君の部隊の隊長とは以前から付き合いがあってね。事情を抱えた君を我が校に招きたいと申し出たのは私の方だった」
「……なるほど、話の辻褄は合っている。隊長も以前、『ゼペットと自分は知り合いだ』と漏らしていた。冗談だと思っていたが」
 今目の前に居るのは、自分など及びもつかない人類を救った偉大な科学者――そして、自分が死なせてしまった〈リヴァイアサン〉の生みの親なのだという事実を、文楽は戸惑いながらも受け入れる。
 緊張感を孕んだ静寂の中に、フラスコ内の水が沸騰して立てる、泡の音がコポコポと小さく入り交じっている。
 ゼペットは容器に代用コーヒーの粉末を落とし込むと、サイフォンの上部にそれを添えつける。フラスコ内で沸騰した透明な湯が、上部の容器へとゆっくり昇り、あっという間に黒い液体へと変じていく。
 長い沈黙をまたいで、文楽はふと思い出したように言葉を発した。
「では、自分がここに招かれたのは――」
「いや。君に責を問うつもりも、査問会の真似事をするつもりもない。とにかく君が考えているような理由ではないよ」
 ゼペットはサイフォンの下部にあるランプの火を、そっと消す。
 途端、上部に登り黒く変わった液体が、静かに下部へと流れ落ち始める。化学や調理というより、まるで魔術か何かのような神秘性すら感じられた。
 文楽は深く頭を下げながら、神妙な面持ちで言葉を返す。
「ですが、自分の失態によってレヴィアを死なせてしまったのは事実です」
「君だけの非ではない。事実は全て報告書で知っている。私はそもそも、ゲーティアが量子頭脳に対する汚染能力を得るのは時間の問題だと考えていた。軍にも『機甲人形アーマードールに頼り切った今の戦略は危険だ』と再三忠告していた。責を問われるべきは、私の助言を聞き入れず作戦を強行した軍部と、予見していながら手立てを怠った私自身だろう」
「……どちらにせよ、俺が無力だったことに変わりはありません」
 たかが操縦士一人では、進化を続けるゲーティアの侵攻を抑えることも、愛機を敵から守ることもできない。戦略的な不利を覆すこともできない。
 改めて自分の矮小さを噛みしめる文楽に、ゼペットは穏やかな声でそっと告げる。
「少なくとも君は、レヴィアの死を悼んでくれているように見える。私にとっては、それだけでもう充分だ」
「ですが、それだけでは……」
「私も技術者として、信頼できない兵器に君たちが命を預けざるを得ない状況を口惜しく思っている。君が責任を感じるのは、私が役目を果たしたその後だ」
 文楽は頭を上げながら、自分が驚きの表情を浮かべていると自覚する。
 人類の最後の希望たる機甲人形アーマードールを、その考案者本人が「信頼すべきではない」と言い切るだなんて。理解していても、叩き付けられた現実に動揺が隠せない。
 どうしてこれほど明白な破滅を目の前にしながら、この男は平然としていられるのだろう。既に別の対策を講じているのか――あるいはまさか、始めから人類の命運に、興味がないとでもいうのだろうか。
 ゼペットというお伽噺の人物に実際に接してみたところで、やはりその輪郭は曖昧にぼやけたまま焦点が合いそうにない。
「では、わだかまりも解けたところで、改めて君の話を聞かせてもらおう」
「自分の話、ですか?」
 ダンスのステップを踏むかのようにくるくると体を回転させながら、ゼペットは戸棚から二人分のカップを取り出して机の上に並べ、サイフォンを持ち上げる。
「実を言うと私は、君と会って話ができることをとても楽しみにしていたんだよ。それこそ踊り出しそうな気分でね」
「まさか……そんな理由で、自分をこの学校に招いたんですか?」
「人形師にとって自分の生み出した人形は、言わば一つの作品だ。そして君は、私の作品の数少ない読者の一人だ。そんな君と話ができる機会を待ちに待っていた。なんら不思議なことではないだろう」
 ゼペットは上機嫌に言いながら、サイフォンからカップへコーヒーを注ぐ。
 鼻歌まで歌い始めて、呆れかえるほどの上機嫌っぷりだ。
「まずは飲んでくれたまえ。砂糖とミルクは好きに使ってくれていい」
「え、えっと……ありがとうございます」
 勧められたコーヒーを、文楽はとりあえずそのままの状態で口へ運んでみる。
 鼻へ抜ける濃密な香りは、戦場でいつも嗅いでいた硝煙の香りを思い出させた。
 ゼペットは真っ白なミルクをコーヒーの中へゆっくりと落としながら、文楽に弾む口調で問いかける。
「まず、君は戦場に立つ以前、何をして生きてきたか。聞いてもいいだろうか?」
「……自分には、戦場で生きてきた記憶しかありません」
「忘れたい記憶、というやつかな」
「いえ。そうではなく、ただ本当に記憶がないんです」
「ゲーティアの攻撃に巻き込まれた影響だろうか」
「それすらよく分かりません……自分が持っている最初の記憶は、戦場で軍の人間に孤児として拾われたときからです。その後は孤児院に入れられて、そのまま国防軍に入隊しました。今から四年前のことです」
 文楽はコーヒーをすすりながら、言葉を一つ一つ紡いでいく。その表情はまるで、会ったこともない他人のことを語るかのように無味乾燥なものだ。
「地上部隊に配属され、しばらくしたところでレヴィアと出会い……あとは、あなたもご存知でしょう」
「ふむ。自己が何者か分からぬまま、戦いの中で自己を獲得してきた存在。それが《蛇遣いアスクレピオス》と呼ばれる英雄の実像か……なるほど、君は思っていた以上に興味深い」
 ゼペットは神妙な顔つきを浮かべながら、ミルクが混じって白んだ茶色をしたコーヒーを音も立てずゆっくりと啜る。
 どうやら心の底から、自分のことを知的興味の対象と見なしているらしい。下手な同情や哀れみをかけられずに済んで、文楽はどこか安堵あんどしていた。
「……おっと。聞きたいことはまだ数え切れないほどあるが、そろそろ本題へ移ろう。君の話は、また後日改めて聞かせてほしいのだが、どうだろう」
「構いませんが、そのときはもっと、手早く飲めるものをお願いします」
「ふむ。軍人というのは、誰もかれもせっかちだね。前線を離れているときぐらいは、ゆっくり時間を過ごしてみるべきだと思うのだが」
 確かに手間暇をかけて淹れたコーヒーは、前線で飲んだものと全く味わいが違った。品質そのものが高いのか、時間をかけた効果なのかまではわからない。
 人間と寸分たがわぬ自我と感情を持った人工知能――人形知能デーモンを生み出したゼペットという科学者の世界観は、文楽が見てきた光景とあまりにも違っていた。
「今回、君をここに呼んだ本題なのだが……君も我が校の訓練生として配属された以上、軍からの貸与品として訓練機が与えられることになる」
 ゼペットは不意に立ち上がると、言葉を続けながら部屋の扉へと近づいていく。
「そこで君には少々、特殊な機体を任せたい」
「つまり、試験機か何かですか?」
「ああ。完成したばかりの新型機でね、試験運用も兼ねる意味で君の訓練機としたい」
「それは構いませんが……自分だけ特別な機体に乗ったら怪しまれるませんか?」
「その点に関しては心配無い。一部の優秀な生徒に試験機を与えるのは、訓練学校の慣例として珍しいことではない。卒業するのと一緒に戦場へ送り出されることもある」
「……つまり当座の付き合いだけではなく、新たな乗機ともなり得るわけか」
「それは君と人形の相性次第だろう。良い出会いであることを願うよ」
 一時的に戦場を退しりぞいていたとはいえ、文楽は三年間前線で戦ってきたキャリアを持つ、優秀な操縦士の一人だ。ゼペットも無論その点についてはわきまえている。
 そんな彼に『特別に任せたい』と言うからには、よほど優れた性能を持つ機体なのだろう。そのまま乗機として戦場へ出ることまで加味しているならば尚更だ。
 ゼペットは扉を開くと、廊下で待っていた一人の少女を部屋に迎え入れる。
 異国風の黒いワンピースに白いエプロン。長い髪に、頭部から生えるくるりと逆巻いた二本の角。
「あの、先ほどは助けてくださってありがとうございました」
「お前は、さっきの……!?
 仮装人形アバターの少女、フェレスは満面の笑みで文楽に向かって微笑んだ。
「再びお会いすることができて、本当に嬉しいです」
 驚きに続く言葉を見つけ出せないでいる文楽を尻目にして、ゼペットとフェレスは和やかに会話を始めている。
「おや。彼と会うのは、今日が初めてのはずではなかったかな?」
「いえ。先ほど私が困っていたところを、この方が助けてくださったんです」
「なるほど。そういうことだったか。それは実に、運命的なものを感じるね」
 ふむふむと頷きながら、ゼペットはフェレスを部屋の中に招き入れる。
「学長……まさかこの人形も、あなたの手によるものですか?」
「ああ。この娘こそ、私が手塩に掛けて作り上げた第八の大罪。その名を〝虚飾〟の〈メフィストフェレス〉」
「《七つの大罪セブン・フォール》の八体目……?」
 そんな機体が存在するなど、全く耳にしたことがない。そもそも、七体しか居ないから〝七つの大罪〟のはずなのに、八体目とは矛盾している。
 背中を押された人形の少女は、スカートの両端を摘まんでふわりと広げながら頭を深く下げて、文楽に向かって言う。
「改めてご挨拶させていただきます。私は〈メフィストフェレス〉の人形知能デーモン、フェレスと申します」
 顔を上げたフェレスは、文楽に向けてにっこりと微笑む。
「ゼペット博士。こいつは、どこまで事情を理解しているんですか?」
「君が何者で、どうしてここへ来て、どんな人間なのか。もしかすると、君以上によく知っているかもしれないね。だが、彼女は〝虚飾〟を司る人形だ。君の正体が彼女の口からばれる心配はないだろう」
「なるほど……そういう主旨の造型か」
 文楽はつぶやくように言いながら、物憂げな様子で考え込んでいる。
 ゼペットは目を細くして笑いながら、文楽に向けて仰々しく頭を下げた。
「これは学長として訓練生に命じるのと同時に、ゼペットという技術者として《蛇遣いアスクレピオス》という英雄への頼み事でもある。どうかこの娘を、一人前の兵器になれるように、兵士として教育してもらえないだろうか」
「それについては問題ありません。ですがここを卒業して戦場へ戻る際、その機体に乗り続けるかどうかまでは分かりません」
「ええっ!?
 言葉を聞いていたフェレスが、目に涙を浮かべて小さく声を上げる。
 いきなり無能扱いされてよほどショックを受けたのだろうと文楽は理解した。
「勿論、それで構わない。くれぐれも宜しく頼むよ、愛生訓練生」
 不本意な訓練学校への入学へ加えて、自分にやたらと興味を示してくる〈救世の父〉ことゼペット博士。そして彼が作り出したという新たな乗機、第八の大罪こと〝虚飾〟の〈メフィストフェレス〉。
「本当に、困ったものばかりだ……」
 次々とやってくる数々の難題を前に、文楽はただそう呟くのが精一杯だった。

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